原子力開発を推進する立場の研究者を経て、原子力資料情報室という一市民の立場に身を置いた高木仁三郎が宮澤賢治について語ったもの。
第一話では、「水や光や風ぜんたいが私なのだ」という賢治の言葉を引き合いに、その自然観に迫っている。賢治も科学者であり、物質的な世界観は受け入れているのだが、そこでは人と自然とが溶けあっている。また、水の流れというのが生き物の命の流れとして、美しく救いのある形で書かれていることが指摘されている。
第二話では、科学者としての賢治、その苦悩に高木自身の思いを重ねていると見て良いだろう。科学をどのようにして人間的な場に戻すか、西洋の科学を日本人がやること、さらにその問い直しをやることの難しさが感じられる。科学を否定すれば良いというものではないのだ。賢治が学校の教師を辞めて設立した羅須地人協会について、挫折だと評されることはあっても人生を賭けた実験だったと、原子力資料情報室を重ね合わせながら述べている。
第三話は短い話であるが、より鮮明に「雨ニモマケズ」と高木仁三郎自身の科学者としての心がけを重ね合わせている。
宮澤賢治と科学、その自然観というのは、とても興味深いテーマである。それだけに、高木仁三郎も道半ばであっただろう。次の世代がどれだけ深められるか、問われているように思う。