『悪霊』 ドストエフスキー 江川卓 訳 新潮文庫、新潮社

あらすじは、左翼の内ゲバみたいなものなのだが、この小説には、「生きる意味系」の問題にそれぞれの決着を付けようとする人々が登場する。その中でも、評者はキリーロフという若い技師に注目した。
彼は、一見ロジカルに自殺を結論し、しかもその死を別の目的に利用されることにもこだわらないという。
しかし、彼は明らかに狂人として描かれている。懲役人のフェージカが言うように、キリーロフは哲学者のようでありながら、ピョートルが言うように「坊主以上に信じている」ふしもあるのだ。
実際、キリーロフの言葉「人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた」は、ステパン氏の信仰告白「もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう」と表裏一体である。
シャートフは言う。「なぜ悪が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです」
ステパン氏は言う。「それが危機に瀕しているのは、たんに美の形態を取りちがえたからにほかならない」
この、ある意味で立派なことを言う「美学者先生」のステパン氏が、息子のピョートルに対しては、育児放棄、財産の使い込みなど、ろくでもない父親であり、そのピョートルが得体の知れない目的のために妙な才能を発揮しているというのも、物語に深みを与えている。