故石原慎太郎が東京都知事だった時、「石原知事と議論する会」というものがあった。その要約は、都の Web サイトにアップされているので、インターネットで検索すれば見つけられると思う。
その第1回目の会には石原慎太郎の盟友、戸塚宏も出席している。
彼は善悪の定義が演繹法で導出できないことをもって、これを体罰で刷り込まなければならないと思っているらしい。少なくとも私は、このような屁理屈をこねて子供に暴力をふるう大人を見て、それが悪いことだというのは、誰に教えられたわけでもなくわかっていた。
私が見たところ、戸塚宏はフョードル・ドストエフスキーと同じ病に罹患している。ドストエフスキーは『悪霊』の中でシャートフにこう言わせている。「なぜ悪が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです」
私だったら、こう答える。「悪が醜く、善が美しいと思うのならば、それでいいのだから、何も思い悩むことはない」
右は保守で、左は革新である。刷り込み次第でどうにでもなるというのは左も左、極左思想である。
その一方で、戸塚は儒教から引用して「心まことこれを求むれば、あたらずといえども遠からず」と言ったり、石原は「絶対的な価値があると思うんだ」と言ったりしている。この矛盾した言動が、この二人の生々しい姿そのものである。