試しに、ドイツ人の現地プロモーターに『ダウン・アンド・ダーティー』と言わせてみる。
だぁうん・あんだーてぃ~ぃ
どうもシマリがない・・・。
ジョニーは出発前のツアーバンの中で思いあぐねていた。かつて極東の国で出る自分のアルバムには、『百万ドルのブルース・ギタリスト』のオビが付いていたが、自分自身、それが何を根拠に付けられたものなのか全く定かではなかった。第一百万ドルもあれば、この歳までギターを担いでヨーロッパの片田舎を這いずり回る必要などないはずである。しかし、それも今となってはどうでもいい話だ。
七十路と書いて「ななそじ」と読むらしいが、なんだか「くそじじ」のように聞こえてならない。それでも上等だ。極東の連中なら『ダウン・アンド・ダーティー』がクソじじぃに端を発していると都合よく解釈してくれるだろう。
ジョニー・フユキが幼少期を過ごしたのはヨコハマ・ネギシのミリタリーコンパウンドだった。だだっ広い原っぱに観客席のようなものがあって、それを背後にダディ―とキャッチボールをしたのを覚えている。次に覚えていることといえば、9年生まで過ごしたニュージャージーのフォート・マンモスでの記憶だ。陸軍で電子通信司令部のエンジニアだったダディ―が、家にあったウクレレに自作のピックアップを取り付けてくれたのもその頃の話だ。
ジョニーに母親の記憶はなかった。しかし今こうして自分が行脚しているこの土地こそ、かつて悲運の民がチョビ髭の独裁者により根絶やしにされかけた彼の地であり、母親の祖国であるらしいことは、生前ダディ―から聞かされて知っていた。終戦直前、四四二部隊の一員だったダディ―が母親に出会った時のこと、骨と皮と化した群衆の中に、ごく僅かだが、容姿が正常で楽器を所持していた人達が一部いた。その中の一人がジョニーの母親らしかった。
“ギター・スリンガー”といえば、誰もが即座にジョニーの名を挙げるだろうが、ジョニーの名がヨハン(Johann)に由来し、末尾のエヌ二つが紛れもなく“生まれつきのランブリングマン”として、本人に背負わされた民族の血筋を意味することなど、天国にいる両親をおいて知る者は誰もいなかった。
『ダウン・アンド・ダーティー』・・・正直なところ、この二十年、ジョニーはツキに見放されていた。健康が悪化してからは、愛器ギブソン・エクスプローラーは重過ぎて持つことができず、弾く楽器は、ボディーはおろかヘッドストックすらない韓国製のギターに降格を余儀なくされていた。そして、そんな有り様をまるでブルースそのものだと自嘲したものだった。いや、むしろ生業としてのブルース・ギタリストを考えた場合、本来はこうあるべきものなのかもしれないと、所詮“戦後派”の自分を諭してやり過ごすほかなかった。