その昔、自転車に乗って家に帰る途中、後ろから「おにいさん、おにいさん」と声がした。そのまま無視して突き進んでいたのだが、信号待ちで追いつかれてしまった。
これは別に大した話ではないのだが、若い警察官に自転車の防犯登録を調べられた。何もやましいことはないし、ノルマでもあるのかなと思い、どうぞ調べてくださいという気持ちで応じた。
しかし、「おにいさん」…。「私はあなたのお兄さんではない」とか心の中で思ったが、昔読んだ人類学の教科書によれば、親族呼称の謎は大変深く、百年以上に渡って西洋の知識人たちの関心を集め、様々な誤解や壮大な珍説を生み出したと言う。
「兄」は、自分の兄弟のうち性別が男で年齢が上の者を言うが、その人に期待される社会的役割で相手を呼ぶことは、世界中いろいろな所で見られると言う。
では、次に行こう。
「おにいさん」の言い換え表現は?
兄哥(あにき)
町田康『告白』の中で、谷弥五郎は城戸熊太郎を兄哥と呼ぶ。兄哥で「あにき」と読むのが一般的なのかどうかは知らないが、中国語で「哥」は「あにき」的な意味らしい。
お兄(あに)いさん
三島由紀夫『鏡子の家』には、“ちぇっ、ケチケチしたお兄いさんだよ”という表現が出て来る。
これは、「おにいさん」ではなく「おあにいさん」と読む。チンピラが発した言葉であるが、現代では、その界隈の人たちの間でもあまり使われなくなったのではないだろうか?
兄(にい)さま
魔夜峰央の初期の読み切り作品『やさしい悪魔』では、悪魔の妹の方がその兄を「兄さま」と呼ぶ。やさしい悪魔は、この兄の方である。
では、やさしい悪魔風に「兄さま」の例文をやってみよう。
――兄さま…
――君がやったのか?
――ごめんなさい!
――約束したじゃないか。人間に手を出さないって。
――ごめんなさい。ごめんなさい。でも、あの警察官があたしのことを疑うようなこと言うし…
――わかった…君の気持ちをさっしてやるべきだったね。いいよ。
――いいの!?
――ああ、防犯登録を聞いてくる警察官は全員自転車に姿を変えて、鉄くず業者に売り飛ばせばいい。
