学生の頃、第二外国語としてフランス語を学んでいた時、授業を担当していた教授が「フランス語と比べると、英語は文法的にあやふやなところが多い」と言っていたのを思い出す。当時は正直ピンとこなかったものの、その意味がわかるようになったのは自分で英語を教えるようになってからのことである。というのも、英語の場合、文法書を紐解いたところで、「~という場合もある」と例外が掲載されているケースが実に多いのである。これを「文法書にもそう書いてある」と伝えたところで、やはり生徒の表情は晴れないのであった。
では、先ほどの教授が述べた「フランス語の方が文法体系的にしっかりしている」という言説はどこに依拠しているのか。おそらくそれは、フランス語の場合、国語としての規範の設定を国家権力が掌握したのに対し、英語はそうではなかった点にある。
『仏和大辞典』(1982年白水社刊)によると、17世紀、絶対王政下にあったフランスでは、中央集権国家の成立という政治的・社会的条件が結びつき、“国語の純化”がもっとも中心的な文化的課題となった。こうして規範の確立が追及されることになり、その後、言語に特化した公的な権威機関『アカデミー・フランセーズ』(Académie Française)が1635年に創設される。このような経緯で、フランス語は正式に国家が言語管理を行うことになったのである。
その方針とは“誰にでも理解できる言語を目指すこと”であり、フランス語を“純化”していくことであった。それが何を意味するかといえば、近代以前のフランス語、すなわち古フランス語や中期フランス語が有していた「過剰な豊かさ」を整理し、言語としての明晰さを追求することであったらしい。
さて、この言語における「過剰な豊かさ」とは一体何を指すのか。それは、現代語にはない“ごった煮感”みたいなものではないかと思われる。いわゆる今日の標準的なフランス語への統一が進む前、中世のフランスでは、学問や教会では主に書きことばとして古典的なラテン語が用いられる一方、人々によって日常的に話されていることばは、ラテン語をルーツとするオイル語やオック語(俗ラテン語)をはじめ、ブルトン語やバスク語、アルザス語など、地方によって異なっていた。また一部を除き、それらの地域言語は地域から地域へと移動していくに連れ、グラデーションのような塩梅で少しずつ姿を変えていくような連続体を成していたらしい。つまり明確な地域的な境界線によってことばが変わるというより、ことば自体がなんとなく境界線を跨ぎながら姿を変えていくといった具合である。イメージとしては、丁度、青春18きっぷで東京から関西まで鈍行列車で行く際、車内で聞かれる方言が少しずつ変わっていくような感じだろうか。ただ、変化の度合いはそれよりもはるかに大きく、例えば東京と小田原の間で通じていたことばが、大垣に到着する頃には通じにくくなってしまうぐらいの差異はあったようである。
このような多様性を背景に、中世のフランスでは言語的な統一がされておらず、いわゆるフランス語としての語彙や単語の綴り、文法における地方色が色濃く残っており、発音における音声体系も現在のものとはかなり異なっていたとされる。
フランス語であれ、英語であれ、それらがどのような経緯で現在の形に至ったのかは言語によって異なる。一方、近代化に伴い、上記のような多様性が標準化されたり、自然に変化していったりすることで、ことば自体が画一化され、言語的統一へと向かっていくわけである。大雑把だが、古語がミネラル分の多い湧き水なら、現代語はその成分を調整して飲みやすくした飲用水のようなものとでもいえるかもしれない。
ここで改めて、くだんの教授による「フランス語は英語より文法体系的にしっかりしている」という言説に話を戻そう。これは正しいのだろうか?むしろ、これは正誤の問題というより、文法の成立過程がそもそも異なることにほかならない。
英語の場合、文法の捉え方の根幹には、“話し手がどのように物事を認識しているか”が大きく関わってくる。英語は、中央集権的に整理されたのではなく、むしろことばの使われ方として社会的に広く受け入れられているものが次第に定着し、標準化されていった側面が大きい。このため、文法的な根拠を話者の視点に求める傾向が強い。それを記述してまとめたのが英文法であるため、平たく言うと“後付けの説明が多い”のである。したがって、実際に使用されていることばが社会的な合意形成によって規範化したものが英語であるとすれば、一方のフランス語は、*「お上」としてのアカデミー・フランセーズが存在するため、より制度的な規範を有しているといえる。簡単に言うと、基準やルールを整備しておいて、それに沿った言語の運用を目指したのがフランス語ということになる。
そう考えた場合、実際の用例をもとに記述される英文法書に「~という場合もある」という例外の記載が多数見られるのはある程度納得のいく話である。
(*英語を中央集権化させる試みは、これまで歴史的に何度か行われたものの、いずれも失敗に終わっている。したがって、英語にはアカデミー・フランセーズに相当するものがいまだ存在しない)
それにしても、自国語の管理についてフランス人が並々ならぬこだわりを持っていると感じるのは筆者だけではあるまい。ラジオで放送する楽曲の約四割を自国語の曲にするよう法律で定めたり、「コンピュータ」(”ordinateur”)や「ソフトウェア」(“logiciel”)といった新しい技術・製品が世に出るたびに、その代替語を敢えて自国語で造ったりするあたりは、福沢諭吉のそれとは目的が異なる気がする。ましてや同じ会話の中でシームレスに母語と英語が入れ替わる(コードスイッチングする)フィリピン人やインド人からしたら、フランスにおけるこの傾向は窮屈この上ないはずである。
職業上、筆者も文法的にはより一元化された規範を求めたい性分である。その点においては、フランス語に対してある種の憧れを抱かなくもない。ただ、そう思うのもフランス語が自分にとってはあくまで三次的な言語だからであって、事実、日々の生活において、権威機関から外来語の使用を疎まれるような事態となれば、正直やりづらい側面もあるのではないかと想像する。家電量販店に行き、ノートPCを物色する際、向かう先が「携帯型個人用汎用電子計算機コーナー」であったとしたら、正直ウザイはずである。
英文法における数々の「~という場合もある」という例外、そこまで肯定的な見方をしたいわけではないけれど、そのよしあしも場合によるのかもしれない。
