【思想家の窓辺】6

文章上だけに存在するロマンチシズムみたいなものは確実にあるわけで、とりわけ日本においては、昔から世界の特定の大都市とそれにまつわる憧れがセットになって溢れかえっている。

例えば、皆が憧れるパリ。勿体ぶって漢字で書くと巴里。パリの空の下、オムレツのにおいは流れるかもしれないが、同地で目にした驚愕の光景を、少年時代の僕は、日本にいる友達に宛てた手紙の中で次のように書いている。

「そこら中、犬のフンだらけなんだ」

事実、お犬様のフン問題は、ロンドンでもロサンゼルスでも同じである。フンを踏んづけるという原体験は、誰しにもあるだろう。少年の僕は、ロンドン郊外にあるリッチモンドの森を散歩中にそれを体験した。踏んだというよりも、むしろ学校用の革靴の片方がそれに埋もれたといっていい。深くて足が抜けなかった。

ロサンゼルスでは、まるでマイタイのように、犬のフンにカクテル用の小さなパラソルが挿してあった。それもそこら中のフンに。片づけるのではなく、飾ることを思うあたり、風呂に入らずに体臭をオーデコロンで隠そうとする西洋人の発想を見た気がした。(もちろん全員がそうだとは言わないが)

その一方で、東南アジアや南アジアの都市におけるお犬様問題は、飼い犬のフンよりも、むしろ野犬そのものの存在にある。狂犬病の予防接種は渡航前に受けておきたい。それと比べると、飼い犬のフンが放置されている欧米の大都市などは、さして問題ではないのかもしれない。

バンコクのチャオプラヤ川では、死んだ野良犬が、川の中でさかさまにひっくり返って立っていた。あれは死後硬直だったのだろうか。文字通り、天に足を向け、ひっくり返って立っていた。チャオプラヤ川の空の下にも、オムレツのにおいは流れるかもしれないが、それ以前に川自体がくさかった。

ちなみに犬が不浄な生き物とされているイスラム教では、人を犬呼ばわりすると大変な侮辱に値する。ヒンズー教はどうなのだろう?インドのガンジス川の河川敷に、人も動物も用を足すという“運子ロード”と呼ばれる一角がある。とある日、バラナシ市内を歩き回っている最中に便意をもよおした青年の僕は、知り合いからこの場所を教えられた。ガンジス川の空の下、オムレツのにおいは流れるかもしれないが、その空の下で用を足した。そして、たしかに、自分以外にもう一人の人間と、犬だったか、あるいは牛だったかが、そこで同時に用を足していたのである。きっと、清濁はあわせのまれていたのだと思う。

宿に帰り、その時のことを反芻していたら、インド系イギリス人の友人が少年時代の僕に話してくれたことをふと思い出した。生まれも育ちもロンドン郊外の彼は、初めて訪れた自分のルーツがある国についてこう述べたのである。

「インドでは人が町中で用を足すんだぜ」

俺もやったよ、ラージ。

テムズ川の空の下にだって、オムレツのにおいは流れるかもしれない。でも、カヌー中に転覆してテムズに投げ出された少年の僕が事前に受けていた忠告は、“ネズミのばい菌が入ると破傷風になるので、切り傷などがある場合は、参加を見合わせること”というものだった。

巴里五輪の際、トライアスロンの水泳競技をセーヌ川で行うことに対して難色を示したヨーロッパ人の懸念も大方似たようなものだろう。

勿体ぶって漢字で書くと倫敦。勿体ぶって漢字で書くと紐育。

中年に差し掛かった今の僕は、そんなわけで、どうしてもハドソン川に憧れを抱くことができないでいる。