今年、日本は戦後80年を迎えた。8月15日近辺、テレビ各局がこぞって例年以上に戦争特集を報道し、エンタメ領域でも日本テレビがジブリの『火垂るの墓』をノーカットで上映した。
戦争体験のない人が人口の9割近くに達した。現在48歳の私でさえ、10年程前に100歳で大往生を遂げた祖母が、自分の旦那(私の祖父)が満州に出兵し、そこで上官に命じられ、中国人を剣で刺したこと、だから、祖父には罰が当たって50代で早く亡くなってしまったのではないか(実際の死因は大腸がん)と涙していたこと、戦争が終わり、祖父が満州から帰還する際、船の中で付けていたメガネを中国人に無理矢理剥ぎ取られ、目が悪いので祖母と再会した時には俄には彼女だと分からなかったこと、数年前に80代で亡くなった父が、幼少期に東京から静岡の三島に疎開した時に、田んぼで捕まえた蛙のお尻にストローを刺しそこから息を吹き込み、蛙のお腹を膨らませ破裂させることで当時の小学生男子が遊んでいた話や、北区田端の実家が大量の焼夷弾で丸焦げになり、幼い父が慌てて更に幼い妹を背負って家から裸足で逃げた話などを聞いたことがある。
しかし、祖母は10年程前、父も数年前に亡くなり、また、父でさえ戦争については幼少期の曖昧な記憶の部分も多く、いわんや今のZ世代やα世代にとって戦争の記憶は教科書で習った、第二次世界大戦とは時代の全くかけ離れた織田信長や徳川家康とそう大差ないものとなっている。彼らにとってイスラエルやウクライナの戦争の方がリアリティを持っているだろう。いや、今の若者の多くはニュースもあまり見なくなっているので、イスラエル、ウクライナさえもあまり知らないのが実情かもしれない。
政府主催で毎年行っている8月15日の全国戦没者追悼式への遺族の参加も、遺族の高齢化に伴い、毎年減少傾向にある(但し、2025年は戦後80年の節目ということもあり、2024年よりかは参加者数が若干持ち直したと言われているが、これも時間の問題だ)。
このように、「戦争の記憶」をどうやってこれからの世代に継承していくかは、今後の令和の教育において喫緊かつ大きな課題となっている。
こうした状況下、近年、多くの若者に見られた戦争をテーマにした稀有なエンタメと言えば、ダントツで映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』だ。
2023年12月8日に公開され、最終的に45億円前後の興行収入を記録した大ヒット作となった。特筆すべきは、戦争をテーマにした映画なのにも関わらず、多くの若者が映画館に足を運んだことだ。
大学教授である私の周りの学生たちも、この映画を見に行った人も多く、たくさんの若者たちがこれに涙し、中にはリピートして複数回見に行っていた人も決して少なくなかった。
実際に私も見に行ったが、二つのことに衝撃を受けた。
一つ目は、上記したように、観客の多くが若者であったこと(たまたまの可能性もあるが)。この映画は戦時中の若者の恋愛(恋愛未満と言った方が正確)を描いているのでこの点はまだ理解できる。また、若い観客のすすり声がたくさん聞こえ、この映画が本当に彼らに刺さっていることも体感できた。
二つ目の衝撃は、私にとっては内容があまりに空疎で浅過ぎて、まるで人物像を描く時間のない15秒のテレビCMのように感じたことだ。
この映画のあらすじを書くと、現代に生きる女子高生・百合(福原遥)は、家族や学校に居場所を見いだせず、日々不満を抱え、反抗的で無気力。ある日、親と喧嘩をして家を飛び出した彼女は、気づくと見知らぬ草原に倒れており、目を覚ますとそこは1945年の戦時下の日本だった。
そこで出会ったのが、特攻隊員の青年・彰(水上恒司)。彼は仲間と共に明るく振る舞いながらも、死と隣り合わせの日々を過ごしている。
最初は戸惑う百合だったが、純粋でまっすぐな彰に惹かれていく。二人は次第に心を通わせ、恋に落ちる。
百合は自分が現代からタイムスリップしてきたこと、もうすぐ日本が負け、戦争が終わることを彰に告げ、特攻に行くことを止める。
驚きつつも彰は愛する人の話を信じ、それでも「特攻」という道を選択し、散る。
再び現代にタイムスリップして戻った百合は、精神的に大人になっており、親や友人との関係も良好になる。そして、学校の行事で戦争記念館に行き、特攻隊員の家族への手紙の中で、彰が自分へ向けて書いた手紙を発見し、涙する、というものだ。
普通、映画のあらすじは本当はもっと長く重厚に書けるものの、ネタバレなどを避け、本当に概要だけ書かれたものが多いと思うが、この映画は上記したあらすじが物語の全てであり、それ以上の見所や深みなどは正直、一切ない。
そして、この映画には、最も大切な部分に大きな疑問が残る。
エンタメなのでタイムスリップするのは仕方ないにせよ、せっかく愛しき人が戦争の終結を知らせてくれ、特攻を引き留めてくれたのに、その話に納得しつつも、それでも彰が特攻を選択する必然性がどうしてもない。「そんなの嘘だ」と納得していないのなら理解できるが、未来から来た愛する彼女の話を信じたのに、つまり、特攻をしたところで国を救うことができないと完全に理解した状況で、それでも何故特攻に向かうのか、の理由や動機が描かれていないのだ。というよりも、どう考えてもそんな動機は存在しようがないので、描くことができない、というのが現実的な理由ではないか。
結局、特攻で彰が亡くなり、最後に戦争記念館で彼が百合に書いた手紙を読ませる、というラストシーンありきで作られた物語なのだろう。
もちろん、戦争と無縁で飽食の時代に目的なく生きる女子高生が、戦時中にタイムスリップし、その悲惨な生活を体験し、価値観が変わる、という設定自体は、若者に「戦争の記憶を継承する」という意味では一定の意味があったと思う。
しかし、戦争の本質である「何故、命を賭けてまで戦うのか」という命題が、ラストのお涙頂戴シーンに導くために全く描かれていないという点において、この映画は「戦争の記憶を継承する」という本質的な目的を達成していない、商業的なCM的な映画だと判断せざるを得ない。
かつて、アウシュビッツでのユダヤ人家族を描いてアカデミー外国語賞を受賞したイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』は、ユダヤ人遺族から「エンタメ化するな」と大きな批判を浴びたことがあるが、まさにこの映画にもこの批判がバッチリ当てはまるだろう。
戦後80年を迎え、「戦争の記憶の継承」という命題のため、どう戦争とエンタメを両立させていくべきか、ということを考える際にこの映画を「最高の反面教師」として継承していくべきだと思う。

