【思想家の窓辺】5

ディストピア小説風:
かつて、崩壊前の第三区域の外れに、登録番号も消えかけたひと組の老夫婦が、法に背くようにして潜伏していた。
名はとうに捨てた。呼び名も記録も、粛清令第十一条により削除された。
空は鉛のように重く、赤茶けた風が地表を這っていた。モニタードローンの影を避けながら、老爺が口を開いた。
「俺は、南の隔離林へ資源採取に行ってくる。」
それは薪とは名ばかりの、かろうじて燃える廃棄樹脂のことだった。だが、それすらも命を繋ぐ灯火となる。
老婆はうつむきながら応じた。
「わたしは、検閲を逃れた川へ。汚染がまだましな場所で、布を洗う。」
ふたりは言葉少なに出発した。彼らの世代には、別れが最後になるという現実が、常に付きまとっていた。
川に着いた老婆は、慎重に防塵マスクを外し、水中線量計を確認した。安全範囲。すぐに洗濯を始めた。
汚れた布地は、かつて政府の制服だったもの。染み込んだ血の色は、もう誰のものかも分からない。
ふいに、川上から異音がした。
「……どんぶらこ どんぶらこ……」
老婆は顔を上げた。川を流れてきたのは――違反遺伝子農作物第49種、通称「巨大桃」だった。
生存区域では絶滅したはずの、かつての象徴。認可外であるそれは、持ち帰ること自体が処罰対象である。
だが彼女は、その実のなかに、何か得体のしれない希望の残滓を見た。
「まあ……なんて大きな桃……おじいさんに食べさせてあげよう。」
その言葉には、ただの優しさだけでなく、どこか必死な祈りが滲んでいた。
老爺の衰えゆく身体、沈黙する監視国家の中で、ほんのわずかな命の灯を繋ぎとめる手段――それが、この桃だった。
老婆は周囲を確認し、桃を拾い上げると、急ぎ足で廃屋へ戻った。
その背に、ドローンの赤い光が一瞬、ちらついた。

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