【思想家の窓辺】5

NY版:
それはずっと昔のこと――などと言いたくなるけれど、実際はそう遠い昔でもなかった。
ただ、今のニューヨークの時間軸には存在しない種類の静けさが、確かにあった頃の話だ。
クイーンズの端っこ。地下鉄のガタついた高架を見上げる裏通りに、小さなアパートが一棟だけぽつんと残っていた。
そこで、おじいさんとおばあさんが暮らしていた。二人とも年季の入った移民で、持ち物は少なく、言葉は静かだった。
ある朝。曇り空の下でおじいさんが言った。
「山に……いや、まあ郊外の方に柴でも取りに行ってくるよ。火がないと、夜が寒いからな。」
おばあさんは洗いざらしのスカーフを頭に巻きながら、少しだけ笑った。
「じゃあ私は川へ行くよ。洗濯、たまってるからね。」
それぞれのやり方で、今日を始める。それが二人の日常だった。誰に見られるでもなく、記録にも残らない生活。
おばあさんは川辺まで出かけた。川といっても、本当はイースト・リバー沿いの古びたコンクリートの岸辺。
ここに来る人は少ない。風が強くて、空気が少し鉄の匂いがして、それが妙に落ち着いた。
彼女が黙々と服をすすいでいると、水面の向こうから何かが流れてきた。
ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。波に揺られて「どんぶらこ どんぶらこ」と音がした――ような気がした。
それは、桃だった。信じられないほど大きな、完璧な球体。
この街のどこを探しても見つからないような色と艶。スーパーマーケットの果物売り場の、照明でごまかした偽物とは全く違う。
おばあさんは、少しだけ目を細めて言った。
「……なんて大きな桃。おじいさんに食べさせてあげよう。」
誰に言うでもなく、ただ風に向かって、そうつぶやいた。
彼女は両腕で桃をそっと抱き上げた。意外に重かったけれど、その重みが妙に頼もしく感じられた。
そして、ゆっくりと家に向かって歩き出した。
あのアパートへ。静かな暮らしの続きへ。
ただ、その日から、何かが少しだけ、変わる気がしていた。

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