田中清玄と太宰治

田中清玄と太宰治が、弘前高校の先輩後輩の関係にあることは、よく知られている。田中清玄は、インタビューの中で太宰治のことを「地下運動時代に俺を怖がってついに会いにこなかった」と言っている。
ここでは、この二人にどれくらいの交流があったのかということよりも、それぞれがマルクス主義から離脱した理由について考察してみたい。
太宰治は、創作であるが、『人間失格』の中で、マルクス経済学を「しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました」「一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず」と言っている。
対する田中清玄は、先のインタビューで「マルクス主義が西洋合理主義の申し子であり、その西洋合理主義は一神論のキリスト教とギリシャ文明を母胎にした混合造形である」と言っている。
この解読を試みると、マルクス主義が依拠している弁証法が、ギリシャ哲学流のロゴスでありながら世界のメカニズムを記述する論理ではなくメシア的な言葉、つまりマルクス主義においては、マルクスが民衆を導く教祖だということではないだろうか。
そして、このことに気づいたことが田中清玄をマルクス主義から転向させたのだとすると、マルクス主義が理論的に間違っていることを確信したということであり、この点においては太宰治よりはるかに頭脳派である。