『真夏の通り雨』 宇多田ヒカル

『誰かの願いが叶うころ』が、宇多田ヒカルが女であることを認識させた曲ならば、『真夏の通り雨』は、彼女が母であることを認識させる曲である。
“揺れる若葉に手を伸ばし”とは、新しく生まれてきた世代のことを指すのだろう。
“今日私は一人じゃないし それなりに幸せで これでいいんだと言い聞かせてるけど”
「言い聞かせてるけど」? こんなことを言ってしまって、良いのだろうか。
“勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々 忘れちゃったら私じゃなくなる”
この「あなた」とは誰のことか。何かのインタビューで、宇多田自身が、この曲は自分の母のことを想って書いたと言っていたのを記憶している。

それで一応つじつまは合うのだが、作品として見た場合、違う解釈も出来る余地がこの曲にはあると思うのだ。
真夏の通り雨のように、「私」を日常の世界から夢の世界へと連れ戻してしまう思い出たち。誰にでも、そういったものはあるのかもしれない。
しかし、それは心に秘めておけば良いのではないだろうか。子供がいれば尚更である。
それを作品にしてしまう、あるいは、せざるを得ないところに、アーティストのカルマを感じてしまう、まさに通り雨のような作品である。