『キラーボール』 ゲスの極み乙女。

例の不倫騒動以来、「川谷絵音=ゲス」という図式が成り立ってしまったようだが、本来、「ゲスの極み乙女。」というのは、乙女がゲスだと言っていたのではなかろうか。
“どうせまた嘘ついて無駄に泣いたりして また明日も今日のようにくたびれた世界で”
川谷絵音という男は、必死になって女のご機嫌を取ってその尻を追いかけているのではないのだ。
“愛愛愛愛愛されながら だんだんだんだん嫌いになって 愛愛愛愛愛されながら どんどんどんどん嫌いになった”

ここで気になるのは、ある意味で女をDisりながら、愛されていることは疑っていないのである。これは、考えようによっては御目出度いのであるが、これが、ゲスの極み乙女。の世界観の憎めなさである。
夢を見ているのは、どちらだろうか? 女の嘘を見破っているつもりでいて、自分は愛されていると思っている。この甘さが、このバンドの魅力である。
indigo la End では、男女の機微としてロマンチックに描かれていた部分が、ゲスの極み乙女。では、多少の毒とおかしさをもって描かれている。
“そのような、私のような人間は、夢想家と呼ばれ、あまいだらしない種族のものとして多くの人の嘲笑と軽蔑の的にされるようである”(太宰治『フォスフォレッセンス』)